花づくし

* 「花づくし~山茶花~桜か水仙花~寒に咲くのは梅

 「花づくし~山茶花~桜か水仙花~寒に咲くのは梅の花~牡丹芍薬~ねえ百合の花~おもとの事なら南天菊の花」と艶っぽい声を披露していた。 やがて三味線が到着した。二三度音合わせをし、景気よく打ち鳴らした。イセの父直伝の三味の腕だった。こうしてイセの身内の門出を祝う酒席は深夜まで続いた。 イセと辰三郎は、家人や他の女房に礼をいい、深夜の帰宅をした。 ミスと長一とは、奥座敷に眠っていた。イセは土間で水を少し飲み、座敷にあがって囲炉裏の炭火に灰をかけて山盛りとした。部屋の明かりを落として、二人はそれぞれ布団へ入った イセは寝つけなかった。興奮していた。兄が立身出世してくれたことが、嬉しかった。 ───なかなか会うことはできまい───イセは兄との再会は無理だと感じていた。 北海道と徳島とでは、天と地ほどの距離に感じられた。 イセの実家はすでに兄が家督を継いでいたイセには不器用な兄が商売を興して出世するなど考えられなかった。イセが移住を決めたころの兄は、勤め人であったのだ。それがどのような巡り合わせだろうか? イセには合点が行かなかった。 出来ることなら、飛んで帰って、両親の墓参りを兼ねて、兄の顔が見てみたかった。 イセは徳島へ凱旋できるとは、思っていなかった。───新天地で新たなる家を興したい── そのことがイセの願だった。孫の長一に期待していた。兄の立身出世の手紙を読んだからには、兄の会社の様子を見て、
 イセはミスや辰三郎の長一に対する親としての考えを飛び越えたような、祖母としての権利乱用を画策していたのである。

【辰三郎の活躍】
 移住者たちの苦労がはじまった。北海道に関する情報は、大いに美化されていた。北海道のの森林や野性動物など自然に関する情報も、あいまいな記述や言葉となっていた。───まさに背水の陣やで!─── 辰三郎はかがんで開拓足袋をはき、帯に日本刀をはさみ、手には槍と鍬を持った。「ほな行ってくるわ。」 「おはようお帰り」「気つけや!」ミスは長一と見送り、イセは奥の部屋から布団を片づけながら、大きな声を出した。 辰三郎は皆と合流し、開墾地へ歩いて行った。何よりも開墾作業が優先である。しかし女子供は力仕事には邪魔であり、後方部隊の飯炊きを頼んでいた。それも家人全員が一斉に出たのでは困るから、家人の半分ずつが交代で炊き出しをし、残り半分は家業に精を出すきまりだった。 辰三郎は懸案だった大きな根っこを鍬で彫りはじめる。 アイヌのミッチャンは、長一の遊び相手だった。ミッチヤンに長一の子守を任せた二人は、畑仕事に出る。 残されたミッチャンは長一が囲炉裏に近づかないように注意をしている。二人からくれぐれもと言われている。長一は活発な子で、外に出たくて気持ちがウズウズする。二人のの後を追う。それを後ろからミッチャンが引き止めるが、小さくても男の子の力は強い。子猫や小犬を扱うような訳には行かない。 「ええよ! 外へ出ても。ミッチャンも外で遊び!」イセの大声が聞こえた。 畑仕事に一段落が着いた。井戸水で手足を洗い、手拭いでした姉さん被りをとる。手にした手拭いでミスの着物をはたいてやる。ミスもお返しをする。こうして二人は午前中の仕事を終えた ───昼からはワラビの始末をせんならんな───イセはワラビの根から澱粉をとる作業のことを思案していた 残り物で簡単な昼食を済ませた。二人は囲炉裏の側で横になった。きつい労働のため、少しでも横になりたいと思うものである。ミッチヤンたちも奥の部屋で横になった模様である。 まどろんでいると、クマよけの鈴が鳴った───クマか?───イセは飛び起きて、弓矢で武装した。手で合図をし、ミスに子たちを守るよう命じた。ミスはそっと奥の間へ行き、襖を閉めた。 イセは土間へ行き、引き戸が開かぬように棒を斜めにして差し込んだ。隙間からそっと外を見ると白い物がスッと動いた。 ───なんやろ? 大きいな。白いクマがおるんかいな───接近戦では弓矢は役立たない。イセは弓矢を引き戸に立てかけた。懐剣の柄に手をかけ外の様子を伺っていた。すると、「シカや! シカがきとるで。」 長三郎の家人が叫んでいる。鍋をガンガンと叩き、シカを追い払っている。イセは外へ出て、「驚いたわ! クマやとばかり思った。」「畑の菜っ葉を狙ったんとちゃうか?」 「そうかも知らん」家人とイセは、しばらく外で話し合っていたが、イセが家人を中へ招き入れた。「ほんま、びっくりしたわ! シカでよかったわ。ワテはな、てっきり白いクマと思うたんよ!」 イセは弓矢を持って狼狽していたことを家人に面白く話した。 「ワテも驚きましたわ。用足しに外へ出たら何やら白い動物がおりまっしゃろ。ほんまに驚きましたわ。せやけどシカということがすぐにわかりましてん。せやから鍋をガンガン叩いてやりましたんや。男衆がおらんもんやから、どないもなりません。」 家人はイセから出された漬物を口に入れながら、話を一段落し、お茶を一服した。「せやけど、クマよけが役に立ったな」 イセはそう言うと、奥の間にいるミッチヤンに続けて尋ねた。「シカはコタン(アイヌ村の意味)にも来るか?」 ミッチャンは首を左右にふった。そして、「シカの肉は美味しい。私たちはよく食べます」 長一の頭をなぜながら、ミッチャンは平気な顔をして喋った。 夕方になって男衆が戻ってきた。辰三郎は外で裸足になり、井戸水で泥を落とし、顔と手を洗ってから土間に入ってきた。ミスは板の間まで行き、 「辰ちゃん、今日は怖かったで。シカや、シカがすぐそこまで来たんやで!」「何か悪さしたんか? 大丈夫やったんかいな。」イセが加わって、 「はじめな、クマよけの鈴がなったよってな、てっきりクマやと思うたんや。驚いたでほんま。ワテはな、弓矢の用意したんや!」 「そうでっか。それは驚きましたやろう。早速シカ退治せなあかんな。シカに人間が恐ろしいことを教えたるわ。」 辰三郎は押し入れから火薬と鉄砲を引きずり出してきた。しばらく手入れをしていたが急に立ち上がり、 「長さんとこへ相談行ってくるわ」辰三郎は長三郎の家へ行き、野性動物への対策を話してきた。 長三郎の判断は早く、シカは特に害獣というほどでもないが、民家近くにまで接近するということは、尋常ではない。よって早急に駆除するために討伐隊を編成するということに決した。翌朝討伐隊は、それぞれ刀や槍を持ち、弓矢や銃を持って出掛けた。
───群れから離れた奴かな?───故郷でウサギを仕留めていた辰三郎は、シカの習性について考えていた。
「おった! おったで。辰ちゃん、あれは迷いシカかいな。」 辰三郎はその問いに頷くと、弾を込めた。 「やった! 一発や! 仕留めたな」皆はシカの近くに立ち、口々に辰三郎の銃の腕を褒めた。 「解体が問題やな。鶏とかウサギの経験はあるけどな。こんな大きいのはようせんわ」 「辰ちゃんとこへきとるアイヌの女の子おったな? 名前なんやったかいな」「ミッチャンでっか?」 「そうや、その子のコタンへ行って、誰かに頼んでもらおう。ワシらはシカ肉なんか食わんからな。アイヌは有り難がって食ういうからな」
 長三郎と辰三郎は、シカの足をそれぞれ紐でくくり、丸太を通して二人で肩に担いだ。辰三郎の家の前へとりあえずシカの死体を運んできた。 家の中から歓声が聞こえ、皆が出てきた。長三郎の家人も奇声をあげ、興奮した身振りである。イセとミスらも出てきた。長三郎が口火を切った。 「ミッチャンいうたな。コタンにシカの皮を剥いでくれる人おるか? このシカの皮を剥いで欲しいんやけどな。頼んでくれへんかいな?」 長三郎は優しい声で話しかけていた。 ミッチャンは大きく頷いた。そして辰三郎と長三郎へ、待つように、と耳打ちした。
 ───遅いな、ミッチャンに無理言うたかなあ。もう、ようけえへんかも知れん─── 辰三郎はミスとイセの顔を次々と見た。 午後になっていた。ミッチャンは一人の男を連れて戻ってきた。男は見たことがある。以前挨拶にやってきたミッチャンの父親である。 男の手には、山刀が2本ある。よく見ると帯に細い小さな包丁が差してある。 辰三郎は解体についての条件を言った。解体した後は、毛皮は辰三郎らが取得する。残りの肉や血と臓物はアイヌへ手渡すということにした。 好条件に気を良くしたのか、男はさっそく解体すると気乗りを示した。解体場所は水が使えるところが良いらしく、しばらく歩いた場所へ案内された。女たちは最初、井戸の近くで解体されたら困るというような難色を示していたが、余所の場所に決まったので、安堵の表情を取り戻していた。 解体も済み、男はコタンへの土産を布に包み込み、背負うようにして肉を持ちかえった辰三郎たちは、シカの皮をなめす準備をした家人の目に触れない場所に杭を打ち、皮を広げて干した。 辰三郎が帰ってきた頃から、夕食が終わった頃まで、今日はシカの話で持ちきりだった。 「アイヌはシカの肉をどうやって食べるんやろうな? やっぱりシカ汁にするんか?」イセは興味津々という顔をして辰三郎に向かって尋ねた。 「ちょっとは、クセがあるんやろね?」 「わからん。食べたことないよってな。ウサギでも臭いで。野性動物は何でもそれなりのクセがあるんとちゃうかな?」辰三郎とイセは、食べる気もないのにシカの話題をした。 故郷においては、イノシシやウサギは食べる習慣もあったが、シカは食べなかった。

【シカ肉で宴会】
 辰三郎たちがシカを仕留めてから、数日たったころ、ミッチャンが人間の腕ぐらいあるシカ肉を持って、朝早くやってきた。イセが肉を受け取り、わら縄のついたまま鍋へ入れた。イセはミッチャンに、 「どないして食べるんや?」と尋ねると、「シカ汁」ミッチャンは、少し恥ずかしそうな素振りをして答えた。 イセは味噌仕立ての汁にすることに決めた ───長さんにも、この間の飲食の礼をせなあかんしな。よっしゃ。今日は奮発して皆呼ぼうか!───イセは出刃包丁を取り出し、シカ肉を一口に切りさばく作業をした。野菜は大振りのブツ切りにした。ゴロゴロと鍋へ入れられる。───大体の用意できたし。長さんの都合を聞きに行こうかい。───草履に足を突っ込み、戸を開けた。長三郎の家人が表を掃いている。イセは親指を立てて、家人の顔を見た。家人は大きく頷き、長三郎はまだ寝ている、という仕種を見せた。 ───ぐうたらやな! 早く起きて、開墾せんかい!───イセは板の間の上がり框に腰をおろして、奥で寝ているという、長三郎に声をかけた。 「長さん! イセです。起きてますか?」しばらく間があった。「ああっ、姉さん何事です?」 長三郎は、発音のはっきりしない寝ぼけた言葉を吐いた。 「あのねえ。シカの肉を貰ったんよ。シカ汁にして、皆さんにふるまいたいんやわ。この間のお礼やねんけど。今晩都合どないやろうね?」 イセは大声を出して返事の出るのを待っていた。長三郎は快諾をした。そして皆にも声をかけて、連れて行くとも応えた。 ───どぶろくの一升や二升は、手土産に持ってきよるやろ!───イセは、捕らぬ狸の皮算用をしていた。そして朝のうちに、ミッチャンを連れて小樽へ酒と塩を買いに行くことを決めていた。 草履を草鞋に履き替え、木刀代わりの杖を手にした。イセはミッチャンを手下に従えて川船頭のところへ向かった。二人は川船に座り、小樽の町をめざした。 小樽の雑貨屋では、酒と塩とをそれぞれ樽で買った。雑貨屋の主人は、荷車で川船のところまで運んでくれるという。イセは飴を求めて、ミッチャンへ手渡した。 ───そうや! 忘れるとこやった。砂糖もなかったんや。うっかり忘れるとこやったちょっと多めに買っとこうか。───イセは自問自答するようにして、普段よりも多めに砂糖を買った。
 ミッチャンは小樽の町が珍しいらしく、周囲をキョロキョロしている。イセはミッチャンに尋ねた。
 「朝は何時に食べたんや?」ミッチャンは、朝早く食べたことをイセに答えた。 イセは屋台で売っている鯖の棒寿司を自分たちが食べる分と、土産分とを足して注文した。 ミッチャンは酸っぱい鯖の寿司は、生まれてはじめてだと言う。イセは故郷では、何かあるごとに宴席に鯖の寿司が出たことを説明してやった。二人は笑いながら石に腰掛けて、好物や初物を思い思いに食べた。 ───皆も故郷の味を懐かしむやろ─── イセは鯖の棒寿司を多めに買い、皆に振る舞うことにした。 ───今まで、我武者羅やったからな。これからは、少しは余裕も生まれるやろう。何しろ、協力せな、どうもならん!─── イセは川船に正座をしながら、今晩の宴会のことを考えていた。 イセはミッチャンに命じて、荷車を引っ張ってくるようにした。船頭が酒や塩・砂糖の樽を荷車に積んでくれるという。イセは酒代を上乗せしてやった。酒焼けした船頭の赤ら顔が、さっきから緩み放しだった。船頭がイセに礼を言うたびに酒臭い息が感じられた。 やがて、ミッチャンの姿が見えた。懸命に荷車を引っ張って走るので、声も出ず、手を振ることさえ出来ぬ有り様である。イセはミッチャンの代わりにと思い、立ち上がって手を振ってやり、大きな声で呼んでやった。「ありがとさん。疲れたか?」 イセとミッチャンが立ち話をしている間に船頭は、あっという間に樽を荷車に積み込んで紐をかけてしまった。 イセは船頭に礼を言い、家路についた。 ミスは座敷の掃除をしていた。今晩の宴会に備えての掃除だった。客用のお碗や皿も吟味して出した。座布団破損の確認もした。 イセは外からミスに戻ったことを告げ、ミッチャンと荷車に積んだ樽を外に一度下ろしたイセとミッチャンの二人がかりで、一樽ごとを土間に運び入れた。 二人は最後の樽を運び込むと、フーッとため息をついて、板の間の上がり框へ座り込んでしまった。 イセは煙管に煙草の葉を詰めて、一服していた。そして煙草の灰を落とすと、「ミッチャン、足洗うで!」 と言うなり、井戸のところへミッチャンを引っ張って行った二人は着物の埃りを手拭いではたき落とし、裸足になって足と顔と手を洗った。 イセは手拭いで顔と首とを拭きながら、「長一にも甘いもの買ってきたで!」 懐から紙袋を取り出し、ミスのところへ行って手渡した。
 「あんなあ! お前! 鯖の棒寿司が好物やったやろ。買って来たで。屋台で売ってたんや。辰ちゃんも好きかいな?」イセは荷物をほどき、今晩宴会で食べる予定の鯖寿司を披露した。 「おかあさん! わて嬉しいわ。食欲ないさかいな。食べるもんが何もない思うてましてん。好物やから、嬉しい!」 ミスは環境が変わってから、食欲を失っていたらしい。イセはミスに早速食べさせた。 「ほんなら、夜まで待てるかいな! 今食べてな。夜にまた食べたらええんや。」 ミスはイセの言葉に励まされながら、小皿にとった鯖寿司を少しずつ口にした。
 夕方となり、ミッチャンは飴の入った紙袋を大事に持って帰った。イセはコタンの両親へのお土産として、鯖の棒寿司を少しだけ土産に持たせた。 囲炉裏に大鍋をかけ、シカ汁が煮立っている。動物性の濃厚な味噌汁仕立ての鍋である一族が三々五々やってくる。手ぶらの者もいるし、家人がどぶろくを抱えてやってくる家もある。
 イセは上座に座り挨拶した。 「皆さん! アイヌの方から、この間の肉の一部を頂きました。味噌仕立てにしましたので、存分に食べてやってください。それと小樽で珍しいものを見つけて買ってきました故郷でよく食べた鯖の棒寿司です。沢山ありますので、召し上がってください。」 イセは自ら、大鍋に菜箸を入れお碗へ肉を取り分けてやる。───ちょっと固いけど、臭くはない。これやったら、食べれるな。───イセはミスの顔を見たが、ミスはイヤイヤをするようにして顔を左右に振って断った。 ミスはお碗に野菜と肉とを少しずつ入れ、辰三郎の膝に抱かれている長一の口へフーッフーッと声を出して、入れてやった。長一は美味そうにして、シカ肉を食った。イセは親子三人の様子を見ていて、 「長一は好き嫌いのない、丈夫な子にせなあかんで。何と言うても、この子は跡取りやからな!」 皆の顔が一瞬曇った。皆は辰三郎に遠慮していた。本来なら、辰三郎が上座に座るべき立場である。しかし養子的な扱いを受けており、イセは辰三郎を見下した感じがある。開墾仲間として一緒に働き、気心の知れた柔和な性質の辰三郎は皆に好感を持たれていた。しかし家には家の格式が存在する。こればかりは、辰三郎の勝手や自由にはならなかったのである。 イセは皆の気持ちを知っていた。しかし辰三郎に全権を委ねる訳には行かなかった。このことは、噛んで含めるようにして、移住前から辰三郎とミスの夫婦へ説いてある。 「長さんの奥さん、どうですか? シカの肉、ちょっと固いかな?」 長三郎の家人は、頭を上下にして返事をしたが、また左右に降り、言いなおした。 「固いことありまへんで。ちょうど美味しくなってますわ。」
 長三郎も加担してきて、美味い、美味いとシカ汁を食べてくれた。 長三郎が、 「辰ちゃん、あれやってくれへんか? 故郷では、とうとう見せてくれへんかったけど噂では、知ってる。」 皆はそれが、辰三郎の詩吟であることをよく知っていた。長三郎の拍手に引きずられるようにして、喝采が起こった。 「辰ちゃん、袴着けやなあかんで。この際やから、羽織袴やな!」 イセは奥の間へ辰三郎を呼び、紋付きの羽織と袴を取り出した。そして着付けを手伝ってやる。袴の腰ひもを十字に結んだとき、イセは先祖伝来の日本刀を辰三郎に持たせた。さらに気付と賞して、鎖が施された鉢巻きを額にしめさせた。 イセは奥から先に出てきて、囲炉裏の宴席へ座りなおすと、「皆様、これから辰三郎が詩吟をいたしますので、聞いてやって下さい!」 甲高い調子の声で皆に演目を披露した。 辰三郎が奥の間から出たとき、「おおーっ、ああー」 とどよめきが起きた。辰三郎の男振りは、「良き武者ぶり」と故郷においての定評があった。 辰三郎は腹の中から絞り出すような声で、皆を魅了し、太刀捌きも素晴らしかった。 こうして、宴席の夜は更けて行った。

【大洪水の被害】
 長三郎の家へ行商人がやってきて、皆の興味を引く話をした。 クマの被害の話や、オオカミの恐ろしさについても話をした。男は話上手で、さも真実味をかもし出した雑談をした。 長三郎が雑談の中で、開墾の苦労話をしているとき、「牛に引かせれば、簡単です」 千葉県から流れてきたという男は、長三郎や家人の顔をそれぞれ、見回した。───牛か、田起こしにも必要やな─── 長三郎は、一軒で飼うのは大変だから、一族の共有にすることを思いついた。すぐに家人をやり、皆を集合させた。イセも呼ばれ、───何事ぞい?───と長三郎宅へ入って行った。家人は丼に山盛りにした、タクアンとお茶を接待してくれた。 長三郎が概略を説明した。そして行商男へとバトンタッチをした。男は牛を飼うメリットのみを説明した。「牛は臭いからな」 誰かが、ひどりごとのように後ろから声をかけた。「風向きや、手入れの仕方によって、変わるのんとちゃうか? 田舎の方でも、牛小屋はあっても、村の者は気になれへんかったやんけ!」長三郎は皆を説得にかかった。 「長さん、わかった。一人の負担はなんぼやのん。金の話をしよう!」 イセは長たらしい繰り言を聞くよりは、積極的な話を好んだ。 長三郎は皆の委託を取り付け、行商人と牛買いに同行することにした。長三郎は皆に牛小屋の予定について指示した。牛は二頭を買うことに決定した。こうして長三郎は家を留守にした。 長三郎は川船で小樽まで行き、行商男と鉄道に乗り、目的地へ向かった。農家に案内され、二頭の丈夫そうな牛を見た。その夜は農家に一泊し、 「牛小屋が完成しだい、人を遣いによこすか、電報で知らせます。」 と言い残して二人は、朝早く帰って行った。 一方、イセたちは総出で牛小屋を立てていた。地面を深く堀り、丸太を立てる。それを中心として小屋を組む。壁と屋根はクマザサで作り、葺いた。小屋の一面に藁を敷き、後は牛のやってくるのを待つだけとなった。 しばらくして、牛が二頭引かれてきた。いつぞやの農家の若い衆と行商男もついてきた牛たちは、真新しい小屋の主におさまった。───これで辰ちゃんの仕事も少しは楽になるやろう─── イセは牛にやる藁を切り、糠と混ぜ、今からの餌作りをしていた。 辰三郎は牛に引かせるソリを作ることにした。原生林へ入り、人間の腕ぐらいの木を伐採してきた。それを器用に組み、牛が引けるソリにした。 「これに根っこを乗せるんか?」
 イセは家の入り口に置かれたソリの使い方を辰三郎に尋ねた。 「根っこだけやあらへんですよ。これに酒樽も塩樽も積めます」 翌朝、牛が開墾地へと連れられて行く。イセも辰三郎の後を追った。懸案になっていた大きな根っこは、大分掘り下げられている。しかし人が数人寄ったぐらいでは、ビクともしなかった。
 長三郎と辰三郎は、牛の鼻を思い切り引っ張る。残りの者は根っこを掘り下げる。牛が後ろ足の土を蹴った。こうして大きな根っこは、その全体像を土中からあらわした。───ひぇー、恐ろしい───根の先端は、人間の考えを遙に越すような長さまで伸びていた。 長三郎の指示で、早めの休憩となった。先程掘り起こした根っこは、男たちによって切りつけられ、細かくなっていた。それを燃えている火にドンドンほりこむ。
 「やっぱり、あれやな。牛の力ちゅうのは違うの! ケタ違いやな。」
 長三郎は辰三郎の顔を見たと思ったら、湯飲みを傾けた。 辰三郎が何かを受け答えしようとした刹那、 「長さん、あんたは偉い! あんたが牛の発案をせんかったら、何時までも根っこごときに苦労を引きずってたで。ほんま、あんたは偉い!」イセは辰三郎に成り代わって、長三郎にヨイショした。 長三郎は休憩時間終了の宣告をした。「さあー、みんな苦労の種はとれた。あとは頑張るだけや!」 イセは可笑しくなった。
 ───田舎では、あかんたれ! と言われた人やったが。人は変わるもんや。─── 長三郎は皆のリーダーとして、逞しく成長していた。 男たちの開墾は終了した。泥まみれの毎日が夢のように過ぎた。後は種を蒔き、水の管理と収穫である。夢はドンドン広がって行く 六月。田畑への接触は完了した。後は、「果報は寝て待て」
という暮らしである。しかし恐ろしい天災がすぐそこまで来ていた。 大雨の続く毎日。辰三郎の心配は開墾終了した田畑のことだった。───雨で苗がどないか、なれへんか? 水で苗が流されへんか?───心配は最悪な形で的中した。大雨が大洪水を引き起こす。イセは長三郎の指示をあおいでいた。 「水かさが増えている。高台へ非難せなあかん。アイヌの人たちの後に続くんや。」長三郎は、アイヌの後追いをするように皆に指示した。
 皆は協力して座敷の片付けをし、貴重品や位牌を風呂敷に包み、首に巻き付けた。 アイヌの人たちは、コタンを出てカムイの山の方へ向かっている。長三郎の一族もそれに続いた。 水かさは急激に増えている。川の形が原形から大きく外れている。 イセたちは腰のところまで濁流につかりながら、山へ向かう。やがて水かさが膝からクルブシまでとなった。 ───家が流されたら、流されたときのことや。どうもならん。振り返ったらあかんのんや!───イセは背水の陣の覚悟で山へ向かった。 辰三郎は親の敵討ちに行くような恰好で、たすき掛けをして、刀を帯に差している。 イセたちは牛や犬を連れてきていた。鶏は小屋を開け放ち、それぞれ追って逃がした鶏たちは、木々の上へ避難している。ミスは長一の手を引いて、大きな風呂敷包みを背負っていた。 山の頂近くに避難した一行は、アイヌの長に挨拶をし、少しばかりの塩と砂糖とを与えた。 アイヌの群れと一行は、地面に座って時間の経過を待った。───水は何時ごろ、引くやろか?─── 一行が頂上に来たころ、雨があがった。 長三郎がやってきた。イセに近づいてきた。 「お姉さん、長が言うにはな。今晩は山で寝るねんて。飯の心配はいらん。アイヌ料理やけど、食わしてくれるんやて。」 イセたちは、鍋釜は無論のこと、食料などは気持ちに余裕もなく、持ち出せなかった。 アイヌの人たちが穴を掘りはじめた。炉をこしらえている。あちこちに家族やグループごとに輪になっている。そこへ一つずつの炉を作っている。 大鍋に野菜や肉が入れられる。ヒエやアワが鍋で炊かれる。動物性の濃厚な匂いがしてくる。 やがてお碗にそれらが入れられ、手渡される。ミスは肉汁を長一にやるつもりである。「これって、シカの肉かな?」 イセはアイヌの女に尋ねた。するとアザラシの肉と教えられた。「ええーっ、怪獣の肉かいな!」